cheekob's diary

元・ゲロ高学歴ニート「ちーこぶ」のブログ。あとノンケだけど女もいけます。

ニートになった経緯⑤ー大暗黒時代「♪部屋と腰痛と私」

こんばんはー

元・ゲロ高学歴(クソ)ニートこと、ちーこぶです。

名前の由来でありますチーズと塩昆布の消費量がヤバいです。

チーズは我慢ている方ですが、塩昆布は毎日食べてます。。。

 

さて。

今回は切っても切り離せないニート遍歴と腰痛について。

 

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まず序曲

私、高校中退の上、一浪してクソ高学歴な旧帝大に入った訳ですが、

受験期を通してずっと悩まされたのが、腰痛でした。

勉強するのに支障はなかったのですが、ずーーーーっと痛くて、前屈姿勢がとれませんでした。かかりつけの内科医、整形外科、整骨院カイロプラクティックなど色々と通い詰めましたが、一向に治らず。ありきたりな表現ですが、腰に爆弾を抱えているような気分で過ごしていました。自分、医学部出身ですが、このあたりから現代医学には懐疑的になりました。整形外科医は無駄にレントゲンを撮った上で、3種類も薬を処方してくるし、馬鹿なのかと思った。色々と医学は発展せど、一番身近な腰痛すらもきちんと治療できないのか、と不信感を募らせました。

それが、大学に合格して親元を離れた新生活が始まった途端、気がつけば憑き物が落ちたみたいに腰痛がなくなっていました。今思い返せば、すぐに恋人もできて毎日がバラ色だったのしょう。受験期はずっとスニーカーなど履きやすい靴を履いていても腰が痛かったのに、この時は毎日パンプスとかハイヒール履いて大学に通っていても、全然痛くなかったのです。

以上の個人的な経験から、(私個人は)「腰痛は精神的な何かが関わる心身症」と結論付けるに至りました。受験期は競争なのに孤独だし、成績のことでピリピリして、親も高校中退の上に浪人中の宙ぶらりんな娘の状態にヤキモキしていた筈で、仲も良好ではなく、私自身知らぬ間に精神的な重圧を受けていたのかもしれません。

 

前置きが長くなりましたが、ここからが本編です。

 

ニート時代も、びっくりするような腰痛に悩まされました。

(そして残念ながら今も完治はしていないのですが、だいぶ良くなりました。)

 

まず、2014年6月に仕事を辞めた時、それまで時はなんともなかったのに、気分転換に行った旅行先で腰がものすごくだるくなり、家路に着くと突然腰回りが重くなって痛くて痛くてたまりませんでした。しかし、この腰痛はすぐに治りました。

そして、同じ年の8月、仕事もやる気が起きないので、ボランティアでもしようかと、まだニート歴も浅くて比較的活発な頃、風呂上りにパンツを履こうとしたら、突然、腰がビキッ!と行きまして、その後すぐに起き上がれないくらいの激痛に様変わり!そう、それがかの有名なぎっくり腰です。。。

以後、この引きこもりの2年間の間に、ぎっくり腰は3回くらいやりました。以降痛みが癖にになってしまったのか。最初の方では一週間布団の上でじっとしていれば治ったのですが、ここ最近はずっと慢性的な腰痛が続いています。ぎっくり腰はもう起こることはなく、慢性腰痛の方も痛みは軽減されて日常生活に支障が出ることはないので安心しています。

 

ぎっくり腰って本当に痛いですよね。

ぎっくり腰1日目は、あまりの激痛に起き上がれずトイレにもいけなかったので、部屋に転がっていたペットボトル(←ニートにはよくあることですが苦笑)の上部を切って、簡易トイレとして利用していました。それでも四つん這いになるだけでも痛すぎて涙が出るくらい痛かったです。

 

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さて。

腰痛と精神の関係性です。

現代医学ではあまり日の目を見ない分野ですが、やはりどの分野でも権威はいるようで、しっかりとした腰痛の権威もいらっしゃいます。

「サーノ博士」の著書

こちらで、専門的にきちんと精神に抱える内的怒りと腰痛の関連性を示唆してますし、日本人でも腰痛は怒りを抱える心(脳)が生み出す、痛み、というような著書も最近になって日の目をみるようになってきたと思います。

 

つまり、心のどこかに「怒り」とかを抱えたままだと、それがストレスとなり、脳が反応して腰などの筋肉の血流量を減らすことで酸素不足となり、痛みが発生するしくみのようです。感情に身体が反応してしまう、というのは興味深い事実です。

 

ニート・引きこもりだった時は、そりゃあ、色々な怒り、恨み、辛み、自責の念、不安などを抱えておりました。少しずつ社会復帰したり、自立して生活するようになると痛みもだいぶ減りましたが、それでもまだ腰痛持ちだということは、自覚できない感情も未だ抱えているということなのか、定かではありませんが、一つずつ向き合うしかなさそうです。

 

どんな形であれ、人は最終的に自分の内部に自ら踏み込んで自らを問いかける、人生ってそんな仕組みになっているんですかね。自分の外には答えは見つからず、答えは自分が知っているっていうやつですね。