cheekob's diary

元・ゲロ高学歴ニート「ちーこぶ」のブログ。あとノンケだけど女もいけます。あとノンケだけどレズビアン風俗で働いてます。

絶望の果てに見える景色

こんにちは。

元・ゲロ高学歴ニートこと、ちーこぶです。

 

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自分ニートだった頃、毎日が絶望的な感じでした。

死んだように静寂なのに、頭の中は自己否定とか劣等感の喧騒で気が滅入り心休まる時がない。

死にたいというか、消えたいと思う。

寝ても冷めてもyoutube見ても、心は晴れず先も見えず、悶々としたうっとおしい靄のかかった視界しかない世界で、真綿で首を締めるじゃないけど、何かずっと苦しい。瞬発的な痛みはないのに、ずっと苦しい。じわじわとエネルギーの削がれるような、身動きの取れないゼリー状の世界生きている。そして突発的に堰を切ったように布団に突っ伏して泣き崩れる。情けない自分と、立ちはだかる世間や周囲への恨みに溺れる。

外出もできない。

出来ても夜間とか、人の紛れる休日に何かに怯えて隠れるように帽子を目深にかぶってコソコソと出て行く。

そんな自分が一番許せなくて、どうしようもない。

エゴと矛盾と色々な消化しきれない感情の嵐に呑まれている。

絶望の中、私は何も見えていないし、何も聞こえない。ただただ苦しい。

 

 

でも、少しずつ、少しずつ、時は流れ、次第に回復し、変なこだわりで自らを縛っていた固定観念やエゴの鎖が砕け散って、過去の鎧を身にまとった自分が崩壊するにつれて、超ミクロ単位でアクションが起こせるようになってくる。するとそのごくごく微量な変化は、気がつくとものすごく大きな変化になっていて、ふと振り返れば、苦しんでいた過去の自分をいつのまにか卒業していたことに気がつく。

絶望の峠を越えて、気がつくと地に足のついた生き方が出来ている。

 

 

…絶望の果てに見えた景色は…

新しくゼロからスタートする清々しい自分。

 

 

自分で勝手にキャンバスを黒で塗りつぶして、「ああ世界は真っ黒だ、混沌だ、絶望だ」と嘆いていたような気がしてくる。それを私は絶望と名付けていた。自分で作り上げた世界ほど破壊の難しいものはない。だから、省みて思うことは、よくぞ古い世界を崩壊に導いてくれた、という自分への賞賛と、今を捨てずに生き続けることを選択し、絶望を乗り越えた自分への感謝の念。生きていてくれてありがとう、よくぞ耐え忍んでくれた、という気持ちが純粋に湧き上がる。

 

 

だから今絶望の淵にいる皆様。

大丈夫。

十分にその絶望を味わい尽くしてください。

死にたくなる時もあるけど、そんな感情すらも否定せず、善悪の判断を下さず、ただ身を任せ、充電期間を大切に生きてください。それもまた、過去の自分を捨て去って新しい自己へと新陳代謝をするために必要な期間です。万物は常に流れゆくのに、精神だけは新陳代謝されないなんて嘘です。そして新陳代謝には、まず古い自己との連結を解体する作業があります。解体作業だけでエネルギーを消費し、一見すると停滞しているばかりで何も変わった気がしませんが、解体作業が終わり、ガラクタとして認知され、それを片付ける(廃棄する)作業が始まると、目に見えてゴミが減るように、自分も古い精神の皮を脱ぎ捨てつつあることが実感できます。うまく例えられているかなあ…?

 

 

あれをしなきゃ、これを達成しなきゃと焦る時もあるでしょう。でもその時、人は「未来にある大きな成果」というものに心奪われ、まさに心ここに在らずで「今、この瞬間」の、地に足をつけた生き方が出来ていません。

大きな出来事、大成というものは実は幻想であって、全ての大事は極小の日々の出来事や自分ができる小さな小事によって構成されている、ということを忘れないでください。それらが集まると蜃気楼のような「大事」という肩書きが靄のように出現します。

未来に吊り下げられた成功とか、大成とか、大きな成果の人参に惑わされる馬にはならないでください。そういったものは実は存在しません。全ては超微々たる毎日の行動の果てに見える小さなものの集大成に「大事」の肩書きがあてがわれるだけです。

美しい大自然はそこに生きる微細な生命たちが寄り集まって素晴らしい景色を作り出します。ローマも一日にしてならず。

 

 

私は、絶望を経験した人が好き。

そういう人は一皮むけて、人間としての器の深さを感じます。

絶望のどん底に落とされただけあって、やっぱり人間的な深みが増すんでしょうね。

 

 

ちーこぶ

 

 

今日もありがとうございました。感謝、御礼。