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cheekob's diary

元・ゲロ高学歴ニート「ちーこぶ」のブログ。あとノンケだけど女もいけます。

ニートと引きこもりを卒業して。あの時辛かったけど、でも今とても幸せだよ。

こんにちは。

元・ゲロ高学歴ニートこと、ちーこぶです。

 

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超高学歴な大学を卒業したのにニートしちゃって、出世街道は早々に離脱。完全に社会から遅れをとったと親からも蔑まれて、でも全然働きたくなくて、既卒で入った会社を7ヶ月ぐらいですぐやめた。それから全然やりたくもないのに、わざわざ東京の渋谷駅まで出向いてピエロの格好してパフォーマンスしたこともあった。人生迷走して、行くべき道も分からず、自分のことも大嫌いで、人混み溢れる電車の中でも常に孤独しか感じられず、駅に着くたび、線路に飛び込む妄想が頭をよぎる私。家族とも一言も話さない完全な引きこもり期に突入すると、毎日はただあっという間に私の目の前を駆けていく。おいてけぼりな私。この現状から逃げ出したいのに、どこへも行けない。気色悪いフジツボみたいに部屋の中に汚くへばりついているだけ。死にたい、というより、消えたい、と切に願った。生きてる価値もないけど、死ぬ勇気もなくて、ただ明日になれば、自分の存在が消えていればいいのに、と何度思っただろうか。

 

でもそんな私も、色々と悩み、ひたすらYouTubeの動画を脳内が麻痺するくらい視聴しまくり、一日なん時間も部屋でふて寝し、家族との食事を拒否して隠れるようにコソコソと部屋で過食し、図書館で本を読みあさり、家族のいる土日は逃げるようにカフェへ避難し、がむしゃらに日記をつけているうちに、ふと物を捨てたい衝動に駆られた。

それで、まず、持っていたもの、95%捨てた。栄光の卒業証書、栄光の卒業アルバム、栄光の二十歳の成人式の人生で一番美しかった時の写真、思い出の品々、留学時代の証明書、その他大学時代に買ったのもの、服、書籍、小学生の頃の服も中にはあった。全て捨てた。もう着るものがなくて素っ裸になるしかないのでは?と思うくらい、捨てに捨てまくった。物とともに、昔の自分のアイデンティティも捨てる。高学歴な大学出身の自分。留学もして英語も話せる自分。二十歳の可愛かった時の自分。愛されていた幼少の自分。お母さんの求めている理想の娘。父が誇って世間に自慢する頭脳明晰な娘。etc,etc... 全て物とともに捨てて、葬り去る。振りきれなくて、物を捨てながら涙を流した。お母さんに買ってもらったものばっかりだった。母子癒着が浮き彫りになる。泣きながらお葬式をしているようだと思った。過去の自分へのはなむけの儀式、いややっぱり神聖なお葬式だと、ものを捨てながら思った。ああ、これで本当に卒業するんだ、って。

それで、本当裸一貫の自分に戻った時、凄く爽快だった。古くて腐敗した汚らしい過去の思い出たちは、とっくのとうに朽ち果てていたのに、すがりついていた自分。それを捨てた時、本当に生まれ変わったと思った。何もない、ただあるがままの自分。ゆで卵の殻をむいてツルンとした肌が光るように、私も脱ぎ捨てた自分の中に確かに息づく光る生命力のような何かを感じた。

物を捨ててからは、早かった。もちろん自分に自信などなかったから、三歩進んで二歩下がる、また一歩下がる、みたいに一進一退ももちろんあった。でも、引きこもっていた通算2年半と比べれば、大したスピードだと思った。少し勇気はいったけど、美容院に数年ぶりに行き、髪の毛を整え、就職の相談にも行き、短期アルバイトを始めて、それが終わると就職活動をして、一ヶ月経たずに採用が決まり、一ヶ月経たずに職場に顔を出すことになった。

プライドとか世間的な見栄とか自我が完膚なきまでに崩壊すると、選ぶ職種も変わる。選択肢も増える。決して高待遇ではないし、賃金も安月給で、当時はこれでいいのかわからなかったけど、好きな英語は日常業務で使うし、昨年就職してから今に至るまでとりあえず、続いているからたぶん自分にあっているんだと思う。しかもまさかの接客業で、自分でもびっくりするくらい笑顔で対応できている。なぜか経済的な不安の塊で自分一人で生計を立てるなんて想像もできないと、あれほど経済的自立を恐れていた私が、今一人暮らしをして、好きな物も食べて好きなこともして、ちゃんと貯金もできているという現実。

 

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こんな風に今、引きこもって自分で自分を隔離し消えたいと思っていた毎日から自分で自分を許して解放され、自分のことが自分で大切にできるようになったら、途端に自分が愛おしくなった。

思えば引きこもっていた時に抱いていた「消えたい」なんて自分のことを自分で全然大切にしていない。愛していない。思えば私は私に可哀想なことをしてきたな、ごめんねと自分に謝ったよ。それと同時に、あんなに辛くて誰にも相談できず一人で孤独や不安恐れ憎しみと戦い、精神的にも肉体的にもボロボロになってもなお生き抜いてくれた自分に対して、心の底から感謝の気持ちも湧いてきたよ、ああ生きていてくれてありがとう、ありがとうって。

 

今、ニートや引きこもりを卒業して思うのは、私は世間の常識とかに縛られて「出世しないとダメ」「お金持ちにならないとダメ」「高学歴で仕事できるキャリアウーマンにならないとダメ」「すげー奴になって人に認めてもらわないダメ」「注目されないとダメ」と、とか何か社会的に植えつけられた「モデル価値観」を守らなくちゃと必死すぎて、自分にとって何が幸せなのかとか、全然わからなくて、そのせいで苦しむことになり、色々なものが崩壊しちゃったけど結果的に崩壊してすごくよかったよ。できることならニートとか引きこもりとか経験せずにこの境地に達したかったけど、でも思考がゴリゴリに固まってた自分には、もしかしたらこれくらいのクライシスが必要だったのかもしれない。全ては後知恵でしかないけど、でも後になってわかる、あれは必要な過程だったんだあ、って。

 

今、私は薄給の仕事だし、恋人もいないし、そのくせ性欲強くて持て余してる助平だし、身長のわりに体重過多だし、休日はニート引きこもり気質が残ってるせいでいつも一人で過ごしてるけど、びっくりするくらい幸せだよ。

掃除したり、料理したり、マラソン走りに行ったり、動画みたり、日記つけたり、本読んだり、整理整頓したり、お風呂入ったり、庭で日向ぼっこしたり、洗濯したり、布団干したり、散歩したり、買い物したり、のよくある日常の風景。ただ毎日丁寧に自分のために生きて、身繕いとかしているだけだけど、こんな自分が大好きです。自分にすごく大切にされて甘やかされて愛情持って健やかに穏やかに平和に生きて、ああ、何かとても幸せです。いつの間にか私の中で私の言動が世間の常識とあっているかを逐一、監視・判断・裁判していた裁判官的な私は消えてしまいました。ただ大いなる優しい何かが私を完全に受け入れてくれていて、私も以前に比べれば、うんと自己受容が得意になりました。自己陶酔と言われても仕方ないけど、でも今人生で一番私のことを愛して大切にしてくれるのは私で、気分屋だったりもするけど、本当にそんな自分を愛しく思える自分が嬉しいです。

この世の中には為政者?が作った変な社会的に受け入れられる規格化・標準化された「モデル」が存在します。その方が経済活動を支える上で重要だと本気で信じているからかな。でもそのモデルが自分に合うとは限らないのですよ。そのせいで「モデル」にそぐわないと「ダメ」の烙印を押されるよう、人はずっと昔から教育されちゃってる気がします。だから皆自分の中にいつも自分で行動を監視・判断させる裁判官を連れている。あれしたら有罪、それなら無罪、など。でも、そんな裁判官本来なら必要ないです。解雇しましょう。もっとありのままの自分をただ見つめて受け入れてほしい。判断など要らない。ただただ、ああそうかそうか、と観察し受容し、判断せずにただ認めてあげれば、いいと思います。そうしたら自分はもっとすごく自由な存在で、尊厳ある素晴らしい命を生きているって感じられる気がします。

 

今、辛い人は、その感覚が完全に正しいことを理解して、とにかく判断をせず、少しずつ失われた自分の尊厳とか見つめてほしいです。なんか偉そうなこといってるかな、でも自分で自分が大切にできるってすごく心地いいですよ。

 

読んでくださった方、いらっしゃいますか。

本当にありがとうございます。大好きです。

 

ちーこぶ